Van Halen / ヴァン・ヘイレンのバイオグラフィー

1970エディ、初のエレキギターを購入。4つもピックアップを備えたテスコのデル・レイなるモデルで、価格は70ドルとも110ドルとも伝えられる。以来、エリック・クラプトンに深く傾倒。
アレックス、ラディックのドラムセットを入手。未成年ながら、父親の率いる便利やバンドの一員として、早くもクラブや各種パーティなどへ潜り込む。
1971アレックスとエディ、ジェネシスなるバンドを結成。度重なるメンバーチェンジの末、バンド名をトロージャン・ラバー・カンパニーとする。
デイヴ、独学でマスターしたアコースティックギターをかき鳴らしながら、お気に入りのフォークブルースシンガーの模擬に明け暮れる。
マイケル、ハイスクールのマーチングバンドやオーケストラでトランペットを吹きまくる。
1972マイケル、近所の質屋にて15ドルで購入した中古のビィクトリア製エレキギターから1弦と2弦を取り去り、簡易ベースとする。
1973サミー、ロニー・モントローズ(g)やビル・チャーチ(b)、デニー・カーマッシ(ds)とモントローズを結成。
アレックス、次いでエディ、両親の期待に応え、パサディナ・シティ・カレッジへと進学。管弦楽法と編曲を学ぶ。
アレックスとエディ、自らのバンドをマンモスと名付け、校内最大のライバルバンド、レッド・ボールジェッツよりデイヴを迎える。デイヴの所有する自慢のP.A.システム欲しさの引き抜きであったとの逸話もある。
マイケル、同様にパサディナ・シティ・カレッジの門を叩き、スネイクなるバンドを率いる。
モントローズ、ワーナー・ブラザーズよりデビューアルバム『ハードショック』をリリース。
エディ、ピアノのレッスンを完全に放棄。
1974マイケル、ジャズ・インプロヴィゼイションの授業でアレックスと出会い、たちまち意気投合。簡単なオーディションの末、マンモスへの加入が決定。
マンモス、その乱痴気ぶりが災いし、カトリック系のカレッジでギグる際、スペイス・ブラザーズなる変名を用いざるを得ない状況に。
11月、モントローズ、ビル・チャーチに替わって、新たにアラン・フィッツジェラルド(b,key)を迎え、セカンドアルバム『ペイパーマネー』をリリース。
1975サミー、モントローズより独立。キャピトルとソロ契約を結ぶ。
マンモス、バンド名をヴァン・ヘイレンに改名。1ヵ月のうち、23日間もぶっ続けで、一晩に45分のステージを5セットも組み立て、広くサザン・カリフォルニア1帯を巡る過酷なクラブサーキットへと身を任せる。当時のレパートリーは、クリームやレッド・ツェッペリン、ブラック・サバスやエアロスミスなどのカバーを中心に、その数ゆうに300曲以上。
マイケル、この頃、現在の妻スーと出会う。
19762月、サミー、第1弾ソロアルバム『NINE ON A TEN SCALE』をリリース。
ヴァン・ヘイレン、ハリウッドのギャザリィズにレギュラー出演。サンタナやUFO、スパークスやニルス・ロフグレンらのオープニングアクトを務める。
4月23日、ヴァン・ヘイレン、グレンディル・カレッジにて、初のトップビルへと昇格してのギグを開催。オープニングアクトはオリジナル・クワイエット・ライオット。
ヴァン・ヘイレン、ノーウォーク郊外のゴールデンウエストボールルーム出演中、ロドニー・ビンゲンハイマーによって見い出され、栄えある登竜門の ひとつに数えられるハリウッドのスターウッド・クラブへの切符を手にする
ヴァン・ヘイレン、スターウッドクラブにて、後に初代マネージャーを務めるマーシャル・バールと出会い、次いでキッスのジーン・シモンズの資金援助により、ヴィレッジ・サウンド・スタジオにて初のデモテープを製作。
ジーン・シモンズ、そのデモ・テープを携え、キッスのマネージャー、ビル・オウコウインにかけあうも、当時、契約を結んだばかりのビリー・スクワイア率いるパイパーに全てを賭けたいとの意向から、あえなくヴァン・ヘイレンは却下される。
19771月、サミー、第2弾ソロアルバム『SAMMY HAGAR』をリリース。
ヴァン・ヘイレン、ハリウッドのウィスキー・ア・ゴー・ゴーにレギュラー出演。地元のパサディナ・シヴィック・センターにおいては、毎月定期的に3000人もの観客を集めるに至る。
ヴァン・ヘイレン、いくつかのローカルレーベルからの誘いをことごとく拒み続ける。
10月、サミー、第3弾ソロアルバム『MUSICAL CHAIRS』をリリース。「You Make Me Crazy」(全米62位)が初のスマッシュヒットを記録。
11月21日、西海岸きっての名プロデューサー、テッド・テンプルマンと、ワーナーブラザーズ社長、モー・オースティン、何の前触れもなくスターウッドクラブに現れ、一通の契約書をヴァン・ヘイレンに手渡し、24時間以内のすばやい決断を迫る。
11月22日、パサディナが誇る難攻不落のロックカルテット、ヴァン・ヘイレン、とうとうアメリカ有数のメジャーレーベルのひとつ、ワーナーブラザーズの手に落ちる。
12月、ヴァン・ヘイレン、ハリウッドのサンセット・サウンド・レコーダーズにて、初の正式なレコーディングを開始。
19781月、ヴァン・ヘイレン、記念すべきデビューシングル「ユーリアリーガットミー」(全米36位)b/W「アトミックパンク」をリリース。日本発売は同年3月25日。
エディ、この「ユーリアリーガットミー」のアドバンス・カセットを無断であのエンジェルにプレゼントしたことが発覚。テッド・テンプルマンの激しい怒りをかう。
2月10日、ヴァン・ヘイレン、デビューアルバム『炎の導火線』(全米19位)を全米に向け、いっせいに点火。この年末までに、全くの新人バンドとしては異例の150万枚を売りさばき、最終的にトリプルプラチナディスクを獲得。日本発売は同年3月25日。
2~4月、ヴァン・ヘイレン、ジャーニーやモントローズのオープニングアクトとして、初の大掛かりな全米ツアーを敢行。
4月、ヴァン・ヘイレン、第2弾シングル「悪魔のハイウェイ」(全米84位)b/W「暗闇の爆撃」をリリース。日本未発売。
5月、ヴァン・ヘイレン、ブラックサバス結成10周年記念全英ツアーに同行。
6月、サミー、ライブレコーディングによる第4弾ソロアルバム「ALL NIGHT LONG」をリリース。この頃より、デイヴィッド・リワーク(g)、ビル・チャーチ(b)、スコット・マシューズ(ds)、アラン・フィッツジェラルド(key)から成る、自らのバンドを率いる。その後、ギタリストはゲイリー・フィルへ、ドラマーはデニー・カーマッシからチャック・ラフへとチェンジ。
6月17日~6月27日、ヴァン・ヘイレン、本邦デビューよりわずか3ヵ月後にして初来日公演を開催。東京、名古屋、大阪で計7回のステージ。
6月25日、ヴァン・ヘイレン、シングル「叶わぬ賭け」b/W「悪魔のハイウェイ」、日本でのみリリース。
7月、ヴァン・ヘイレン、オーストラリア公演をキャンセルし、エアロスミスやハート、エディ・マネーらと共に、ダラスにて催されたテキサス・ワールド・ミュージック・フェスティバルに出演。次いでローリング・ストーンズやEOL、エアロスミスらを単発でサポート。
7月18日~7月19日、ヴァン・ヘイレン、L.A.のロングビーチアリーナにて、レコードデビュー以来、ヘッド・ライナーとして初のビッグステージを催す。
8月、ヴァン・ヘイレン、第3弾シングル「ジェイミーの涙」b/W「アイム・ザ・ワン」をリリース。日本未発売。
8月、ヴァン・ヘイレン、自らのプロダクションを設立。新たなマネージャーにノエル・モンクを迎える。
9月25日、ヴァン・ヘイレン、シングル「炎の叫び」b/W「ジェイミーの涙」をリリース。日本未発売。
11月、エディがレコーディング・セッションに参加した、ニコレット・ラーソンのソロデビューアルバム「愛しのニコレット」登場。
12月、ヴァン・ヘイレン、第4弾シングル「叶わぬ賭け」b/W「おまえは最高」をリリース。日本未発売。
19794月、ヴァン・ヘイレン、第2弾アルバム『伝説の爆撃機』(全米6位)をリリース。プラチナ・ディスク嬢得。日本発売は同年7月10日。
4月、ヴァン・ヘイレン、第5弾シングル「踊り明かそう」(全米15位)b/W「オッタ・ラヴ・アゲオン」をリリース。日本未発売。
4月8日、ヴァン・ヘイレン、エアロスミスやチープ・トリック、TOTOやテッド・ニュージェントらと共に、11万人を集め、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムにて開催きれた第1回カリフオルイパルに出演。以後、同年11月まで全米ツアー。
4月13日、デイヴ、ワシントンで公演中、激しい胃痛を訴え、その場で病院へとかつぎ込まれる。極度の体力消耗が胃内の悪性ビールスを刺激したものだが、幸い大事には至らず。
4月、ボストンがパッキング・ヴォーカルを務めたサミーのシングル「(Slttln’0n)The Dook Of The Bay」(全米65位)、スマッシュ・ヒットを記録。
5月10日、ヴァン・ヘイレン、シングル「踊り明かそう」b/W「スパニッシュ・フライ」、日本でのみリリース。
5月、サミー、第5弾ソロ・アルバム『STREET MACHINE」をりり一ス。「Plain Jane」(全米77位)がスモール・ヒット。同時に、ボストンやカンサス、キッスやELOらのオープニング・アクトとして、精力的に全米ツアー。
6月、ヴァン・ヘイレンの「ユー・リアリー・ガット・ミー」を収めた映画"レベル・ポイント"のサントラ盤リリース。
6月28日~6月29日、ヴァン・ヘイレン、ロンドンのレインボウ・シアターにて、2夜連続のソールド・アウト・ショウ。
8月25日、ヴァン・ヘイレン、シングル「必殺のハード・ラヴ」b/W「ウィメン・イン・ラヴ」、日本でのみりり一ス。
9月3日~9月13日、ヴァン・ヘイレン、再来日公演を開催。京都、福岡、名古屋、倉敷、大阪、東京の順で全7回のステージ。
9月、サミー、初の全英ツアーを開催。オープニング・アクトはデフ・レバード。
12月、ヴァン・ヘイレン、第6弾シングル「ビューティフル・ガールズ」(全米84位)b/W「D.0.A.」をリリース。日本未発売。
ヴァン・ヘイレン、70年代の終わりまでに、700万枚ものアルバム・セールスを達成したとされる。